2012/03/31

現地報告(3/29)

活動日:2012.3.29
報告者:宮田 和弘

当初「一景閣」で食器洗浄ボランティアをする予定でしたが、工事業者が入るとのことで急遽予定を変更し、清水さんの案内により、9名全員で陸前高田市小友町のプレハブの自宅兼店舗に住んでいるFさんに支援物資(多少のお水と食料品)
を届けた後、一日かけて宮古市田老町まで往復し途中被災地を視察して回りました。

 小友町のFさんは、昨年4月に支援機構ボランティア第1便で行った折に陸前高田市ボランティアセンターから依頼されてボランティアに行ったお宅の方です。津波で自宅は50mほど流され、自宅の一階は完全に崩れ、2階が傾いて田んぼの中に残っているような状態でした。また、一緒に住んでいた息子さん夫婦とお孫さんを津波でなくされ、「残された身体の不自由な主人と二人、これからどうやって生きていけばいいのか」と、涙ながらに話されていた様子がとても印象深く、それ以来ずっと私の気がかりとなっていた方でした。その思いは、その時一緒にボランティアに行った清水さんや他の方も同じだったようで、その後改めてFさんの住まいのあった場所を訪ねられ、再会することができたとのことです。今回、Fさんと短時間ではありましたが、再会して以前よりも元気そうな様子が見られ、話も出来、更にプレハブではあっても元の場所で床屋を再開されているのを見て、とてもうれしく幸せな気持ちになりました。


陸前高田市小友町のFさん


陸前高田市小友町のFさんの住宅兼店舗


また、今回、東京にもう一人の息子さん家族が住んでおられることを知り、少し安心しました。これからも現地で出遭った一人ひとりの立ち行きを願い続けて行きたいとの思いを強くしました。

現地報告(3/27~28)

活動日:2012.3.27~28
報告者:嶋田 洋


27日午前中、S氏(宇部東)の案内で、安波山より被災地を一望し、その後、火葬場が間に合わず、犠牲者で一旦土葬されていた場所へ行った。その後、前回留守のため設置できなかったインターホンを設置するために、松崎柳沢仮設住宅を訪問した。しかし三件中二件が留守で、結局一件しか設置できなかった。しかしながら、設置した一件で、神様のお引きよせだと語り合った事件があった。それは、その方と30年来のお付き合いがあった方が、この震災で被災して徳島へ引っ越され、その後もお見舞いなど送ってくださっていたが、記載されていた電話番号にかけても電話が通じず、送り状の住所も略字で読み取ることができず困っておられた。そこにボランティアのメンバーの中に徳島県出身者が二名いて、たまたま屋内に入ったのがその彼だったため、正確な住所が判明することができ、大変喜ばれたという出来事だった。教会へ戻る途中、田中前公園仮設住宅の自治会長に代表交代の挨拶をした。


午後は、反松公園仮設住宅で開催した演奏会にボランティア全員で参加した。参加住民は、15名だった。




28日、10時開会の演奏会設営のため、全員で9時に教会を出発。設営終了後、住民へ演奏会のアナウンスをしながら仮設住宅内を回った。参加住民は、子どもや中学生を含む26名だった。演奏会後、参加者全員で演奏者と一緒に写真を撮ったり、おじやの試食、お茶っこと会話も弾み、終了予定時間を30分延長して終了した。



午後は、月立小学校で写真救済プロジェクト活動の手伝いを全員で行った。その後、A師(相模原)とM師(登戸)が翌日帰られることから、陸前高田市を案内した。

現地報告(3/23~26)

活動日:2012.3.23~26
報告者:嶋田 洋



23日、午後NGO、NPO連絡会議にM氏(気仙沼)と出席。代表交代の挨拶と名刺交換を行った。


24日故S氏(気仙沼在籍信徒・南三陸町在住)のご葬儀に、教会長とS氏(宇部東)、M氏(常盤台)と一緒に参拝。ボランティアは、デイオフとした。
 

25日午前中、全員で28日に開催する演奏会のチラシ約300枚を、五右衛門ヶ原すべての仮設住宅にポスティングした。加えて、会場となる野球場の集会場の荷物整理をする中で、ダンボール10箱分の中古衣類処分を手伝ったが、F氏O氏(ICYE)の両氏から「まだまだ着れる衣類もたくさんあるのにどうして処分するのか」「支援をお願いしているのに一方で捨てるという行為が理解できない」と問われ、問題提起された気がした。
午後は、写真救済プロジェクトの活動拠点である月立小学校を訪問して、代表交代の挨拶方々御用聞きを行った。その後、階上地区(向洋高校跡地他)や大谷海岸など、メンバーがまだ訪れてなかった被災地を案内した。
 

26日午前中Cadoccoの窓拭きから室内まで全員で掃除を終え、紫市場商店街のごみ拾いをするつもりが、ほとんどごみが落ちてなく、そのままの流れで紫神社境内のごみ拾いをした。午後は、一景閣にて洗物を行った。

現地報告(3/17~22)

活動日:2012.3.17~22
報告者:嶋田 洋


17日、滞在中のボランティア全員で、プラザホテルで開催された金光教東日本大震災一年祭の会場設営から終了後の片付けまで手伝った。

18日、首都圏団を見送った後、田中真人現地代表と、五右衛門ヶ原の三つの仮設住宅自治会長及び気仙沼市サポートセンター(市内仮設住民の相談窓口)へ、現地代表交代のあいさつ回りを行った。

19日午前中、O氏(気仙沼)、A氏(柏原)、F氏(ICYE)、O氏(ICYE)を連れて陸前高田市を視察。午後、S氏(宇部東)の案内で西八幡前仮設住宅(鹿折地区)を訪問し、代表交代の挨拶を行った。
 

20日午前中、全員で金光会館にある支援物資の整理を行った後、一景閣の会議場の清掃とセッティングを行った。午後は、気仙沼教会の春季霊祭に参拝し、その後、西八幡前仮設住宅へ整理した物資を届け、お茶っこ(住民3名)の後、五右衛門ヶ原・野球場の仮設住宅へ物資を届け、お茶っこ(住民4名)で親交を深めた。
住民の方々とお茶っこ


21日午前中、前日金光会館から出た可燃、粗大不燃ごみを処分するため、市のごみ焼却場へ行った。午後は、市と支援団体との懇談会・第7回仮設住宅分科会に、M氏(気仙沼)と出席。S氏(宇部東)は初めて来られたボランティアを連れて被災地を案内。T氏O氏(気仙沼)は、朝から一日、五右衛門ヶ原・野球場の仮設住宅にて、諸作業の手伝いをした。


22日、O氏(気仙沼)は、一日、昨日同様、五右衛門ヶ原・野球場の仮設住宅にて手伝い。O氏以外は、一日、一景閣にて洗物。ただし、私とM氏(気仙沼)は、午後に気仙沼教会において自殺予防対策の勉強会があったため、そちらに出席した。

2012/03/17

現地報告(3/17)

【 金光教東日本大震災一年祭 】
317日、金光教東日本大震災一年祭、すばらしい集いとなりました。

気仙沼プラザホテルで、会場超満員の520(主催者発表)の参加で、
立っている人たちもいました。

3部構成で、まず開会のご祈念があり、
寺本憲昭実行委員長の挨拶がありました。
あの震災は何だったのか、「日常性の喪失」であり、
当たり前のことが出来るのは当たり前ではないことを気づかされた、
と語っておられました。

第1部は3人の信徒による震災体験発表。
「震災一年を迎えて ーその時、そして今ー」というタイトルで、
気仙沼教会の斉藤徹さんのつなみ被災体験、
仙台教会の濱松修作さんの地震被災体験、
保原教会の高橋環さんの原発被災体験でした。
いずれも濃密な中身で、感銘深いものでした。
記録を改めて読ませてもらいたいと思っています。


第2部は奥原志郎気仙沼教会長祭主による一年祭です。
祭典次第は、神徳賛詞、祭主祭詞・玉串、参拝者玉串奉奠、東北復興祈願詞奉唱です。



祭詞の中でそも3月11日とはどういう日なのか、と自らに問いかけ、
巨大地震、大津波に町並みが根こそぎ奪い去られた情景、
数多の人たちが犠牲になった様、原発事故の被害の及ぼした恐怖に触れ、
それらは天地の悠久の営みではあるけれども、
氏子を思われる親神の悲嘆はどれほどのことか、と述べました。
今復興への歩みがボランティアにも支えられてすすんでいるが、
神の願いのままに人が人を助けるのが人間との営みが展開していくように、
被災した御霊たちが助かり立ちゆき、残された者を支えて下さるようにと
祈念をこめました。

典楽に関東典楽会有志が奉仕していました。
コーラスに白金教会の高橋氏率いるグループが奉仕しました。 

第3部は高校生による音楽演奏。
始めに金光藤蔭高校の和太鼓部。鎮魂のための演奏は迫力満点で、会場全体が共鳴して、
天井からは電球がぱらりぱらりと落ちてくるほどで、
演奏に涙している人たちもいました。


次に、金光大阪高校と金光藤蔭高校混成の40名ほどの編成でした。
賛助出演にメゾソプラノ歌手の和田千重さん(成城教会)が歌いました。


閉会行事で安武秀信教会部長の挨拶、全員による「神人の栄光」斉唱で、幕を閉じました。

司会は若松登東北次長でした。
夜は120名ほどの大宴会。部屋の向こうがかすむかと思うほどの人の数で、
相互の交流を深めました。

その夜、仮設商店街の中の飲食店や、南町のバレンタインなどで呑みかつ歌い、
地元の商業復興支援に貢献して来た人たちの冒険談も多々聞きました。                              
(田中元雄)
以上

2012/03/11

現地報告(3/11)

3月11日の東日本大震災慰霊復興霊地祈願祭にて、現地スタッフ清水さんが発表されました。
その全文です。なお、祈願祭の模様はUSTREAMでご覧いただけます。http://www.ustream.tv/recorded/21026645

「復興支援活動をとおして」清水幹生
 皆さんこんにちは。今ご紹介いただきました山口県宇部東教会の信徒総代をさせていただいております、清水幹生と申します。
ここで一つお礼を申し上げておきます。皆さん方の中から気仙沼にたくさん来ていただいております。本当にありがとうございました。一年たちました。が、まだまだ現地の人達は心の中はまだ癒えておりません。これからも一段と皆さまのご支援が必要になってくると思いますので、その時はどうぞよろしく、お願いいたします。
いまここでは、最初に入った4月の22日から6月の後半までの3か月に限ってお話しさせていただきます。すべてをお話ししたいのですが、持ち時間がありませんので、その点はお許し願いたいと思います。
1.四月の東北沿岸部の状況
私が気仙沼に入ったのは、昨年(2011年)の4月22日です。宇部を発ったのが4月21日、約20時間をかけて車を運転して気仙沼に入らせていただきました。まずは、宇部から仙台まで、トラック運転手2名を連れて行きました。この2名は以前仙台に物資と20トンの水を納めてくれた方たちです。
その2名を仙台で降ろし、私は一人で気仙沼に向かいました。通った道は国道45号線。仙台から釜石方面に走っています。これはすべて海岸線を通っている道です。が、私が入ったころはほとんど道が破壊されていました。津波によって車や木造建ての家が流されており、道がほとんど途絶えているというか、破壊されて通れない状況でした。その中、山道を通りながら、または国道45号線に入ったりしながら気仙沼まで行きました。
山道から突然飛び出たところの海岸線の町に志津川町があります。皆さんテレビでご存知ですよね。防災センターからさいごまで避難を呼びかけた女性のいた建物を、横目に見ながら志津川町を通りました。完全に町は破滅でした。
次に、その隣町の小泉町に入りました。JRの気仙沼線が走っていて、その線路の橋げたが地上から約10メートルのところにあります。この上に家や車がたくさん並んでいるのですね。この光景をみたときに、「えー」と思いました。高さが10メートルあるということは、津波がそれよりさらに高くて、13メートルから15メートルという高さの津波が押し寄せてきたことになります。私が見た正面、橋げたの先は海です。その真反対が山手で、一面に家がたくさんあったところですが、それもすべて流されておりました。
そういうガレキの中を、自衛隊の方が、ご遺体を探しておられました。そういう場面を見ながら、ひたすら気仙沼に車を走らせていました。
気仙沼の市内に入ってきますと、これがまたすごい状況でして、みなさんも津波の状況を4日間ほどテレビで放映されたのを見ておられると思いますけれども、家がまったくありません。鉄筋で作った家の骨組みが残っている程度で、家はすべて流されておりました。海岸線にある町はぜんぶ壊滅状態でありました。
そういう中を見ていますと、ついつい思いが出てきました。何かといいますと、「神様はどうしてこんなむごいことをされるのですか。小さい子供まで犠牲になさって、どうするのですか。我々人間に何を教えようとされていらっしゃるのですか。」という思いが出てきました。そういう思いを抱きながら気仙沼教会に入らせていただきました。
2.気仙沼での活動と現地の方々との交流
気仙沼教会に入らせていただくと、お広前、その隣にある談話室、そこいっぱいに 被災者の方がおられました。道路を隔てて向かい側に紫会館という避難所がありますが140名の方が避難されておられました。そして教会の後ろ側に金光会館という教会所有の宿泊所があり、われわれボランティアの拠点とさせていただいておりました。食事は被災者の方たちと一緒のものです。食事を作る方達は、気仙沼教会の下に南町という商店街があり、そこの料理人の方々がほとんどです。その方々が朝晩と食事を作って下さっていました。それをわれわれボランティアも被災者の人たちと一緒に食事をしてきました。
でも我々はよそものです。はじめは、受け入れてもらえるというか、なかなか親しくなれませんでした。
紫会館に入っておられる140名の方々、そして気仙沼教会に入っておられる30名近くの方たちと生活していると、だんだん親しくなってきます。そうすると被災当時のことを小さく細かく話してくださるようになりました。
日中は、われわれボランティアチームは災害ボランティアセンターに登録して作業に行きます。この日はここにいってください、あそこにいってください、というように毎日作業する場が変わります。最初の4月、5月、6月、あるいは7月まではほとんど肉体労働です。ガレキを片づけたり、家を片づけたりしました。ときには現場に残っていたたくさんの写真のアルバムの洗浄作業をしました。津波によって泥がたくさんついていて見られる状況ではないのですね。ガレキ片づけの現場などから、体育館に集められていて、これを水できれいに洗って、また見られる状態にしてアルバムに入れなおす作業もしていました。
3.気仙沼に行かせていただいた思い
われわれボランティアとしては・・・というより私は「ボランティア」という言葉があまり好きではありません。ボランティアというのは奉仕という意味になると思うのですが、私は奉仕をするために行ったつもりはありません。
私がしたいと思ったのは何かといいますと、大地震のあった3月11日2時46分、テレビで放映されていたと思いますが、たまたま私は山の中を歩いていましたので状況がわかりませんでした。家内から電話があり「東北は大変よ、東北は大変よ」、と聞きましたので、急いで帰ってテレビのスイッチを入れてみますと、私の孫と同じよう子供たち、それを抱えたお母さんが流されていく場面もありました。そういう場面を見ていると、なぜか、どういうわけでしょうかね、いかにじっとしておられない状況になりまして、むかし神戸に行かしてもらった時の仲間が近くにおりましたので、声をかけて、とにかく現地にいこうということで飛び出したのが、最初の仙台であり、石巻でありました。ところが気仙沼が、どういう訳か心の中から離れなくて、どうしても行きたいという思いがありましたので、三回目は一人でとにかく気仙沼に入らせてもらおうと思い、入らせていただきました。
こうして約一年経ってきましたけれども、いまときどきですね。仮設住宅に入っている方から電話が入ることがあります。夜中だったり昼間だったりします。その方は仮設住宅の自治会長をやっておられる方です。全責任がありますので、いろいろ思いつめたり、自治会の皆さんの思いが心の中にずうっと入ってくるのですね。そうすると。人間、やはり、責任感が強ければ強い人ほど、グーっと心が締め付けられるといいますか、それによって自分が潰れてしまいそうになられるわけです。そういうときに電話がかかってくることがあります。そういう時こそ大事だよと思って、その場の電話では「どうぞ元気で過ごしてください」と言いながら、明くる日はかならず顔を出してその人の話を聞きにいったりいたします。
これを通していきますと、だんだんとお互いに親しくなり、心と心の触れ合いができてくるようになります。こうなるとその人もだんだん明るくなってくるのですね。これが私にはボランティアの仕事だというか、務めだと思わせてもらっております。
4.気仙沼で過ごす思い
まず気仙沼に入って思ったこと、また、入る以前から思っていたことは、たくさんの方々が亡くなっておられるのですね。その亡くなられかたが大変悲惨です。どうしたらいいだろうかと思いました。気仙沼に着いてからは、毎朝4時に起きて、ご祈念の始まる朝6時までの2時間を利用させてもらい、とにかく消滅した町の中を歩き、霊様を弔わせておうと思いまして、現場を歩かせてもらいました。
そうしますと、朝早く目が覚めた老人の方に会うことがあります。その方々は、なくなった町の中で暮らしておられたのですが、かならず朝早いときには自分が住んでおられた町にまた足を運んでおられるのですね。声をかけてお話しすることもありました。私は山口弁、ご老人は気仙沼の言葉なので、最初はなかなか理解できませんでした。話していくうちにだんだんと被災されたことのひとつひとつを話してくださるのですね。そこで、「ご家族は?」と聞きますと、だまって、指を一本あげて示してくれるのですね。これは。「家族はいない。私ひとり」という意味なのです。
3か月間ずっとそうやって歩かせていただきましたけれども、毎日毎日そういう人たちと出会って悲惨なことを聞いてきますと、さきほど言いましたように「神様どうして、神様どうして?」という思いがどうしても出てくるのですね。だから地震というのは天変地異といいますけれども、地球が生まれて46億年、あと寿命が46億年といわれていますけれども、どうでしょう、天地異変がおき、いろいろ災害が起きて、むごい死に方をなされる方がたくさんおられて、みなさんはどう思われたでしょうか。
私は現場の中を歩くたびに。そういう老人に会って、つらい話をたくさん聞いてきました!
あるときは。町の中を歩いていて、ふと、亡霊としか思えないのですが、子供の顔がちらーっと(妄想と思うが)出て来るのですね。「どうしたの?あなたはだれ?」と、話しかけるとニコニコーと笑って、スーっと消えちゃうのですね。そうしたら、消えた途端、急に、グーッと鉛がつるされたような重い体になり、悲しみが猛烈に襲ってきます。決して自分がそうなったつもりではないのですが、なにかしら腹の底から悲しみがドーンと出てくるのですね。
これが3か月の間、ずーっと続きました。65キロあった体重が一時55キロまで下がりましたけれども、この原因は辛いからなったということよりも、「数多くの霊様が、ひょっとしたら、私の体の中に入って来られたからではないかな」と思っています。この事で、私自身は、霊様は助かっておられないなあという思いをさせられました。神様がそうさせられたのだろうと思います。
5.神様のお計らいごと、思い
そういう経験をさせていただきながら、「神様のお計らいごとはどういうことなのかな」と思って現場を歩いているときに湧いてきた言葉が、気仙沼教会の朝のご祈念の最後にいつもご神号としてあげさせてもらっております
「生きても死にても天と地は我が住みかと思えよ」という言葉が、出て来ました。
そして、またある日に、気仙沼教会の信者さんからお願いを受けました。息子さんが亡くなっておられるのですけれども、当初は火葬がなかなかできないのですね、この方の息子さんも土葬されておられました。土葬から火葬にするときにいったん掘り起こさないといけないわけですけれども、その際4名の身内の方の証人が要るのです。その証人がいらっしゃらないので、その方は私に立ち会ってほしいといわれましたので、即座にお受けしてそこに立ち会うことにいたしました。
3月から丸3か月経っての土葬を掘り起こすわけです。お父さんと一緒に墓地に車でいったわけですが、すでにその車の中でソワソワソワソワして落ち着かれないのですね。そりゃそうですよね。たった一人の自分の息子さんが亡くなられたわけですから落ち着けるはずがないのです。しかも土葬したのをまた掘り起こすわけですから、大変な作業というか、強烈な苦しみがまた出てくるわけです。
だから土葬の現場に着いたら、私はその方の体をひっつかまえていました。土葬されている棺桶のある場所で、掘り起こす中をひっつかまえておりました。そして、言った言葉は、「とにかく見守っていて下さい、祈ってあげてください」。そういう思いで、身体をしっかりと捕まえていました。どんどん棺桶が見え始めたころになりますと、さすがにそのお父さんも落ち着かれていました。その棺桶を新しい棺桶に移し替えるまでには、ちゃんと落ち着いておられました。
でも、そのご遺体を私自身も見ましたけれども、亡くなられて三ヶ月経って茶褐色に変わっておりました。みなさんで新しい棺桶に移すとき、ちょうど首のあたりが新しい棺桶にあたったのですが、「ボキッ」いうような音も聞こえました。さすがの私も精神的にちょっとおかしくなるかと思いましたけれども、それもなく無事に落ち着いて立ち会うことができました。
この土葬から火葬に移す作業と「生きても死にても天と地は我が住みかと思えよ」のご神号、この二つをいただいたときに、私の疑問というか、抱いていた思いについては、
「天変地異、こういう大災害を起こすのは神様ではない、これは地球が生きていくためには仕方ない現象だ。」と改めて感じさせてもらいました。
事実、私は68歳なのですが、この68年間、過去を振り返ってみますと間違いなく神様もお働きで助けていただいた事実はあります。
それと被災された方々のなかで、数多くの方々が奇跡的に助かった、亡くなってもおかしくない状況の中を命を助けられた方々はたっくさんいらっしゃいます、その話をたくさん聞いてきました。だから神様は間違いなく人を助けえる計らいごとはされていらっしゃるわけです。災害と天地異変は神様のお計らいごとでもどうしようもない、神様のせいではないということを改めて私は感じさせてもらっております。
5.被災地の思い
最後になります。ちょうど時間となりました。最後に皆さんにお願いしたいことは、どうか被災地に来てほしいのです。今私がどういう言葉で皆さんに現地の状況を話したとしてもなかなか伝わらないものがあります。若い人もたくさん来ました。自殺しそうな人も来ました。全員元気になって帰りました。むしろ被災者の方から元気もらって、そして地方に帰っていきました、
お願いです。いろいろな事情があるかもわかりませんが、なんとか都合をつけて被災地に来てほしいです。そしてご自分たちの神様からいただいたこの霊様、魂を揺さぶってみて下さい。そうしたらいまの自分の姿が見えてくると思います。何かをしなくてはならないというか、現状が、いま被災地がどういう状況になっているのか、被災された方々はどんな思いをされているのか、どんなつらい思いをされておられるのか、きっと分かるはずです。
現地の人は言っていました。

「とにかく現地を見てくれー!」


叫んでおられます。
どうかよろしくお願いします。ありがとうございました。
以上
※当日お話にはありませんでしたが、予定原稿の末尾の内容です。
私の長女は三児の母親です。最近手紙を寄越してくれました。彼女はボランティアの経験はありませんが、私の行動を見て感じた事を書いています。
「娘からの手紙」
 「そちらでの活動は忙しいですか。
私は、今まで震災のボランティア活動をした事が無いので正直、その大変さわかりません。想像でしかありません。
現地に行って人の助けになりたいと思っても、受験がある・仕事がある・子どもが居ると、いつも遠くから出来ることをするだけ、祈る事だけです。
思い立ったら直ぐに行動に移すお父さんは、本当にすごいなと思います。
震災からもうすぐ一年ですね。私にはあっという間の一年に感じますが、被災された方々にとっては長い一年だったのでしょうか。
暖かくなるまでまだありますが、体に気を付けて頑張って下さい。」


 被災して一年のこれからは、心のケアをしていかねばなりません。その為、息の長い支援活動が必要となるので、地元の人達、特に気仙沼教会の信者さんの活動は大きな力となるでしよう。
我々被災地以外の者は、支援活動してくださる地元の人達に、力強いバックアップ支援体制を構築していく事が大切です。
人が人を助けていく運動は、我々被災地以外の者の大切な義務ではないでしょうか。
そうでないと、人の痛みがわからない環境・社会になってしまい、世の中がおかしくなると思えてならないのです。

以上



2012/03/09

現地報告(2/26、27)

活動日:2012.2.26、27
報告者:吉見美紗子(銀座教会)


2月26日の早朝6時に夫と共に横浜を出て、正午過ぎに気仙沼に到着、ホテルに荷物を預けて、タクシーで田中公園の仮設住宅に向かいました。
初めて伺った談話室は畳敷きで、20畳くらいの大きさでしょうか、キッチンもあり、荷物
置き場を兼ねた3畳くらいの部屋の一番奥にトイレがありました。
今日は金光教首都圏災害ボランティア支援機構(フォーゲル東日本連盟)の人達が炊き出しをされて、仮設住宅の皆さんに振舞われたとのこと。
早速、私達もお相伴に預かり、美味しく出来たチキンカレーとお味噌汁を頂戴しました。





1時から「歌を楽しむ会」をさせて頂くことになっていたので、この日の為に作成した
2冊の歌詞集を皆さんにお渡しました。1つには、今の季節に合った冬と春の童謡,唱歌など
24曲を、もう一つには、各年代層に向くように選んだ歌謡曲を95曲掲載しています。
津波にすべての物を流された皆さんに歌集を差し上げたいと思いました。歌詞があれば、
いつでも口ずさむことができるし、会合や何かの時にお役に立つのではと思ったので、
出来るだけ沢山の曲を載せました。私がキーボードで伴奏するので、それに合わせて
皆さん揃って歌って頂き、少しでも元気になってもらいたいというのが願いです。
初めは、「早春賦」、「春よ来い」、「春の小川」、「朧月夜」などを歌いました。後は「歌集の中からお好きな曲をお選び下さい」と申し上げると、年配の男性が「人生劇場」と「星影の
ワルツ」をリクエストして下さったので、みんなで歌いました。




気がついた事は、歌謡曲の歌詞には“別れる”という言葉の何と多いこと! 今まで全く気にしたことが無かった歌詞に被災地向けに選曲する時の注意すべき点が多々あることを実感しました。でも、ほどほどにお楽しみ頂けたのではと思いました。

ここの仮設住宅には、まだ自治会が出来ていないので、集まって下さった方たち同士が
そんなに親しいわけではありません。こういったサロン活動が継続的に行われて行くとよいと思います。


27日(月)10時から気仙沼市立 内の脇保育所で子供たちに“歌と手あそびうた”を楽しんでもらおうと田中さん、清水さんと夫の四人で足を運びました。 準備ができる頃に、美紀子先生、幹雄さん夫妻と、そのお子さん二人も来てくださいました。この保育所は、津波で流された幼稚園の園児たちが来ているので、定員120%の状態なのだそうです。30数名の子供たちが、大きな声で私の伴奏に合わせて歌ってくれました。「むすんで ひらいて」「手をたたきましょう」「赤い鳥 小鳥」の歌のあとに、手あそびうた、じゃんけんゲーム、くっついた遊びなど大変賑やかに過ごしました。「さんぽ」「崖の上のポニョ」は大人気、「マルマル・モリモリ」は、全員が踊れます。びっくりしました。素直な子供たちの楽しそうな笑顔としぐさに、私たち大人は幸せな気分になれました。歌うことが好きなんだなあ・・と実感して盛りだくさんのプログラムを終えました。

午後1時から五右衛門ヶ原テニスコート仮設住宅の談話室で“歌を楽しむ会”をさせて頂きました。ここは既に自治会が出来ており、皆さんの交流もあるので、最初から和やかな雰囲気で会を始めることが出來ました。昨日の反省からある程度、私の方で選曲して皆さんが歌い慣れたころから、リクエストして頂いたのが良かったようで、次々歌って楽しく過ごせました。途中“お茶っこ“の時間もあり、初めての私たちに親しく接して頂き嬉しく思いました。次回お訪ねする時は、もっと盛り上がって楽しい“歌の会”になるのではと思います。歌っている時には、涙を流している方がおられ、私も演奏しながら心が痛みました。でも帰る時にはお見送りして下さって、明るいお顔で「また来てね。ここの談話室にいつでも泊まれるからね」と言って頂きました。「また行こうね」と夫と話しています。

この度の活動は、金光教首都圏災害ボランティア支援機構の田中さん、清水さんにお世話頂いたので実現しました。震災から11ヶ月たち、何か私たちに出来ることをさせて頂きたいと、思い続けた夢が叶いましたこと大変嬉しく思っています。
神様のおはからいに有難く感謝すると同時に、この活動が続けていけるように心から願っています。

2012/03/07

現地報告(2/25)

活動日:2012.2.25
報告者:田中真人



先日、こんな出来事があったと聞いた。五右衛門のある場所でコーヒーを提供するボランティアが入った時の事。他のエリアの住民がコーヒーを取りにきたら”あなたは、よそものだから帰りなさい”と追い返され、泣きながら帰った人がいたというのです。

(特に近い仮設住宅間で、対立意識があるのか分かりませんが、一緒に混ざる事が難しくなってきているといった事があります)

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朝6時のご祈念前に昨夜東京を出発した7名(芝・6名・品川の大江氏)が到着。ご祈念が終わって外にでると雪が降り始めていました。


本日は、猛烈に雪が降る中、フォーゲル東日本連盟主催の仮設住宅による「野球場にミュージカルがやって来た!(音楽ライブ・ゲーム集会&お茶っこ」(10時~12時)のサロン活動をさせて頂きました。会場である野球場の会長に許可を取り五右衛門ヶ原にある3つの自治会、全てに声をかけました。



“すばる(芝)”から5名 ・ “ピアニスト1名(芝の友達)1名”・“あかね(品川)”から1名(大江さん) ・ “いわお(大崎)”から1名(私自身)・“はやぶさ(宇部東)1名(清水さん)“高知大学5名、熱田から1名、中立売から1名(あいよかけよの取材)と計16名で参加。

オープニングで私達が東京や、高知から来たことを案内させてもらいました。それから皆さんに、五右衛門ヶ原のどの自治会から来られたかを手を上げてもらい確認すると、半数ぐらいが他の自治会から来ている事が分かりました、このような機会を作って自治同士の交流がはかれるといいと思います。

司会を芝のI氏にバトンし、いよいよスタート。

構成は(歌→ゲーム→お茶会)

1、音楽ライブ(約30分)「ボーカル・綿引さやか」「ピアノ・佐久間由紀」

・サウンド・オブ・ミュージック
・カントリーロード
・ディズニーメドレー
・ハナミズキ
・I will always love you
・ふるさと(みんなで合唱)




2、フォーゲル式 ゲーム集会 (約60分)

・春がきた(「春が来た」を歌いながら「た」の所で手を叩く)



・アブラハム (アブラハムを歌いながら体を動かす)

・リーダー探し (鬼がリーダーを探すゲーム・鬼以外は円を作って座る。リーダーは次々と動作を変えていき、メンバーはリーダの動作の真似をする。クスクスといった笑いから、大爆笑へ)


・なんでもバスケット(円を作って座る。鬼は、円の真ん中に立って共通項を言う。例えば、「黒の上着を着ている人!」該当者は、全員立って、別の椅子に移動しなくてはいけない。必ず、一名があぶれる事になる(鬼は、みんなが立ち上がって空いた席に座る)。3度、あぶれたら、尻文字の任務が・・・




                                           尻文字の様子☆

・お茶っこだほい

前回に引き続き好評でした。歌いながら踊りながら相手を変えながら、握手しながら顔を合わせながら、、、、笑顔に溢れます。(キャンプだほいの、替え歌バージョン。「初めて見る人♪ 初めて会う人♪ 初めて話すひとぉ~♪ 今日から友達♪ 明日も友達♪ ずぅっっと友達さぁ~♪ お茶っこだほい♪ お茶っこだほい♪ お茶っこだほいほいほぉ~い♪♪♪」)




3、お茶っこ  (30分ほど)
最後に、みんなでお茶っこ♪ 子供達は、外で元気に雪遊び♪(すごいハッスル!) ボランティア達は、変わる変わる、雪合戦に参戦! 雪だるま作りに励みます。外には、本気の証(巨大雪だるま)がありました。




一人も帰ることなく、お茶っこへ。自治会の壁を越えて、時間を共有することに☆

(こちら側の反省点はありますが、住民のみなさんに楽しんで頂けたと言う事が何よりも嬉しく思います。夜に自治会長さんより感激のメールが入りました。住民の方達から「今日のはとても楽しかった、良かった!」と話をされて感激しての事でした。

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集会場から教会へ戻って雪かき! 重たい雪ですが、ちょうど人数がいるので、みんなで、力を合わせます。これも神様のお計らい♪



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*夕方から、田中公園仮設で、チキンカレーを作りました。配食は明日の昼です。



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*夜のミィーティングで次のような報告がありました。

●大江リーダーより:「子供達に、本気で遊んでくれる大人がいないんだろうなぁ、そういった大人が必要だと思う」「お陰を頂いた。ゲームなどでも一つ間違えば怪我をするような事もあったかもしれない、その中でお陰を頂いて今日を過ごす事ができた」

●明日、高知へ帰る学生から:「自分はクズみたいだって思ってた。でも、誰かの役に立つという事が嬉しかった。こんなに喜ばれて、結局自分の為になりました、自分がボランティアされたみたいだ。笑顔作ることできて嬉しい。」

●すばるのリーダーF氏より:「今回のゲーム集会は歌で始まり、ゲームにつながり、お茶っこで終り、プログラムに一連の流れがありました。参加された方は途中で帰られることもなく、最後まで楽しんで頂いて本当によかったです。この活動により多くの方が参加いただけたらなぁと思います。今まで3度ボランティアに来させてもらって偶然か、運命か、3度とも、野球場に仮設集会場にこさせてもらいました。  だから、色々な人の顔が懐かしいし、自治会長だって、最初にあった時は、そうなるだなんて想像もできなかった。不思議だなぁと思う。でも、回を重ねる毎に、信頼関係が結ばれていくような気がする。今後も、フォーゲルリーダーとしても、まだ被災地に訪れていない方たちにこの活動を知ってもらい、多くの人と一緒に、また気仙沼に戻ってきたいと思う。
●他にも、「震災後に消えたもの、音楽やゲーム、楽しいことをする事ができてありがたかった」「感謝の気持ちを感じる一週間だった」「音楽を聴きながら、涙を流しているお婆さんが印象的だった、胸の奥に沈んでいるものが湧き出て、神様にすくい取られてほしいと祈る」などと報告がありました。


*日頃からやっているフォーゲル集会が、こんなにも集会場で喜ばれ、必要とされている。みなさんは、それを肌で感じたことでしょう。

歌→ゲーム→お茶っこ。素晴らしいルーティーンができたと思います。
支援は、細く長くと言いますが、今後も続けていきましょう。

フォーゲルの隊員、リーダー、OBなどに限らず若い方から、年配の皆さま、よろしくお願い致します。


以上