報告者:田中 元雄
気仙沼に11月6日(火)から9日(金)まで行ってまいりました。大変濃密な時を過ごしてまいりました。嶋田現地代表とは最初の1日だけでしたが、一緒にSVAの現地統括責任者と懇談しました。現地の総体的な状況がよく分かりました。金光教の立ち位置もわかり、大変参考になりました。
残り3日は、清水さんにほとんど張りついてもらい、寝てる時間以外はほとんど一緒に行動し、仮設住宅、仮設商店街などで、じっくりと話を聞かせてもらいました。現状がよく分かりました。
どういうわけか、改めて被災直後の壮絶な話をあちこちで聴かせてもらいました。清水さんが「ああいう話は普段なされないんですけどね。でも、先方からお話し始めたことですから、時にはこういうことで胸のつかえを下ろすことになるのかもしれませんね」と語っていました。本当にものすごい話でした。
五右衛門ヶ原の3つの仮設住宅(運動場、野球場、テニスコート)での話です。それぞれの自治会長や住人さんたちが異口同音に、「金光さんは最初から最後まで寄り添ってくれた」と言いました。「最後まで?」と聞き返すと、「そう、最後まで」。わけを聞くと、「この辺鄙な場所にある仮設を見つけて最初に駆けつけてくれたのが金光さんだった。自治会を起ち上げる手伝いをしてくれて、困ったことを親身になって聞いてくれて…。1年前はいろんな団体が来てくれたよ。毎週毎週いろんなのが来て、うんざりするほどいろいろやってくれた。でも、今はみーんな居なくなって、来てくれるのは金光さんだけ。だから、最後まで…」
気仙沼に限りませんが、今年の冬は仮設住宅にお住まいの被災者の方々にとって、かなり厳しいものになりそうです。そして来年の冬、つまり来年末には正月を迎えられるかどうか、という非常に厳しい状況も想定される、ということでした。
今回はボランティアの人がいなかったので、食事の時と引き続いての懇談の時に、今後のことについて、奥原先生ご夫妻と清水さんとかなり突っ込んだ話し合いができました。
現地代表はいつまで置くことができるか。いつの時点で地元中心の体制にできるか。それらについても見通しを立てるべき時がきています。次の支援機構会議では、それらのことも話し合うことになります。
8日は朝早くから日が暮れるまで奥原先生と清水さんと共に、岩手県方面の信奉者のもとを中心に訪ねました。貴重な話も聞かせてもらいました。
釜石、大槌町、山田町、田老町の防潮堤も見て回りました。宮城県は、気仙沼市に6mの防潮堤を造ることを決めているそうです。しかし、どこにどういう形状で、どんな街作りを想定して造るか、ということがまったく決まっていないのだそうです。行政と地元とでは意見が正面から衝突しており、街作りの全体構想がまったく見えない、ということで憤懣の声をあちこちで聞きました。そんなことを考える上で、各地の破壊された防潮堤を見て、大いに考えさせられました。
どんな強大な防潮堤を造っても、そのハードだけではダメだということは、万里の長城のような強大な防潮堤を二重に築き、8年前に「津波防災都市宣言」と大きな字で巨大な塔を建てた田老町が壊滅的な被害をこうむったことでも分かります。以前は、地震が来たら避難、ということが徹底していたのに、いまはもう津波は大丈夫と安心してしまっていたというのです。
「逃げる」という対応、ソフト面がハード面と同時にセットされていなければならない、ということが今回の教訓だったはずです。(ひとまず終わり)