報告者:清水 幹生
11月7(水)、8(木)、9(金)の現地の活動状況
この3日間は田中元雄先生を、「出来るだけ現地の被災者の生の声を聞いて頂きたい」と思い、五右衛門ヶ原の三カ所の仮設住宅と個人的に知り合った東新城仮設住宅にお住まいのFさん宅にご案内した。
また気仙沼教会の中で被災され方々を訪問しつつ、釜石・大槌町・田老町の被災地をご案内した。さらに、南町紫市場のフリーダムで千葉さんの料理を頂きながら、なかなか進まない街作りの事等を聞いて頂いた。
内容については、田中元雄先生の報告書をご参照下さい。
11月7日(水)
午前中は、五右衛門ヶ原のテニスコート仮設住宅を訪問。昼までの長い時間、被災当時の生々しい事や、要望等を話して下さった。
午後は東新城仮設住宅のFさん宅を訪問。お年寄りのお母さんしか居られませんでしたが、一景閣に近い弁天町が震災時のお住まいだった。家族全員無事だったが、気仙沼中央公民館に逃げ込んだが、津波は三階立ての三階まで押し寄せ、「もはやこれまで」と、覚悟されたが何とか、屋上まで上がり助かった。次は海の方から油に火がつき波とともに火が公民館に近づき、「もうダメだ」と、二度目の覚悟をされた。それでも助かったのです。この話を以前聞かされていましたが、辛い悲しい経験をされている。
その後、五右衛門ヶ原の運動場と野球場の仮設住宅を訪問した。
運動場の自治会会長は、体調を崩され入院されていて、退院されたばかりだった。原因はよくわからないようだったが、長い間の自治会会長として頑張っていた疲れが出たものと思われる。
上記の三カ所の仮設住宅は最初からお付き合いしていて、馴染みが深い。
11月8日(木)
この日は奥原先生、田中元雄先生をお連れして気仙沼教会の被災された信者さん宅を訪ねながら、大槌町・田老町までご案内した。
11月9日(金)
田中元雄先生を鹿折の被災地と上鹿折にあった土葬されていた場所へご案内した。
土葬された場所は現在はさら地になっている。改めて土葬されていたご遺体を掘り起こし、火葬した時の様子を思い起こされた。御霊様のご冥福を祈り、次の場所に向かった。鹿折から一景閣辺りをご案内しつつ、弁天町を抜け岩井崎に向かった。震災時、この岩井崎の近くに向洋高校があり地震直後、「全員全力疾走で逃げろ」と言う、野球部監督の指示で向洋高校の野球部員は、本当に小高い方までの2kmを全力疾走で逃げ切り助かった。監督はグランドから生徒が逃げるのを確認したが、本人は津波が目の前、屋上の高い鉄の棒に掴まり助かったという。
今、校舎はそのままだが、グランドにはゴミ処理工場が建設中だった。
岩井崎をご案内後南町紫市場のフリーダムで昼食後、田中元雄先生はお帰りになった。
私は午後からイベントのチラシ貼りに五右衛門ヶ原に行った。
その後、ひかり新聞に載せる原稿書きに没頭した。
以上です。