2012/03/11

現地報告(3/11)

3月11日の東日本大震災慰霊復興霊地祈願祭にて、現地スタッフ清水さんが発表されました。
その全文です。なお、祈願祭の模様はUSTREAMでご覧いただけます。http://www.ustream.tv/recorded/21026645

「復興支援活動をとおして」清水幹生
 皆さんこんにちは。今ご紹介いただきました山口県宇部東教会の信徒総代をさせていただいております、清水幹生と申します。
ここで一つお礼を申し上げておきます。皆さん方の中から気仙沼にたくさん来ていただいております。本当にありがとうございました。一年たちました。が、まだまだ現地の人達は心の中はまだ癒えておりません。これからも一段と皆さまのご支援が必要になってくると思いますので、その時はどうぞよろしく、お願いいたします。
いまここでは、最初に入った4月の22日から6月の後半までの3か月に限ってお話しさせていただきます。すべてをお話ししたいのですが、持ち時間がありませんので、その点はお許し願いたいと思います。
1.四月の東北沿岸部の状況
私が気仙沼に入ったのは、昨年(2011年)の4月22日です。宇部を発ったのが4月21日、約20時間をかけて車を運転して気仙沼に入らせていただきました。まずは、宇部から仙台まで、トラック運転手2名を連れて行きました。この2名は以前仙台に物資と20トンの水を納めてくれた方たちです。
その2名を仙台で降ろし、私は一人で気仙沼に向かいました。通った道は国道45号線。仙台から釜石方面に走っています。これはすべて海岸線を通っている道です。が、私が入ったころはほとんど道が破壊されていました。津波によって車や木造建ての家が流されており、道がほとんど途絶えているというか、破壊されて通れない状況でした。その中、山道を通りながら、または国道45号線に入ったりしながら気仙沼まで行きました。
山道から突然飛び出たところの海岸線の町に志津川町があります。皆さんテレビでご存知ですよね。防災センターからさいごまで避難を呼びかけた女性のいた建物を、横目に見ながら志津川町を通りました。完全に町は破滅でした。
次に、その隣町の小泉町に入りました。JRの気仙沼線が走っていて、その線路の橋げたが地上から約10メートルのところにあります。この上に家や車がたくさん並んでいるのですね。この光景をみたときに、「えー」と思いました。高さが10メートルあるということは、津波がそれよりさらに高くて、13メートルから15メートルという高さの津波が押し寄せてきたことになります。私が見た正面、橋げたの先は海です。その真反対が山手で、一面に家がたくさんあったところですが、それもすべて流されておりました。
そういうガレキの中を、自衛隊の方が、ご遺体を探しておられました。そういう場面を見ながら、ひたすら気仙沼に車を走らせていました。
気仙沼の市内に入ってきますと、これがまたすごい状況でして、みなさんも津波の状況を4日間ほどテレビで放映されたのを見ておられると思いますけれども、家がまったくありません。鉄筋で作った家の骨組みが残っている程度で、家はすべて流されておりました。海岸線にある町はぜんぶ壊滅状態でありました。
そういう中を見ていますと、ついつい思いが出てきました。何かといいますと、「神様はどうしてこんなむごいことをされるのですか。小さい子供まで犠牲になさって、どうするのですか。我々人間に何を教えようとされていらっしゃるのですか。」という思いが出てきました。そういう思いを抱きながら気仙沼教会に入らせていただきました。
2.気仙沼での活動と現地の方々との交流
気仙沼教会に入らせていただくと、お広前、その隣にある談話室、そこいっぱいに 被災者の方がおられました。道路を隔てて向かい側に紫会館という避難所がありますが140名の方が避難されておられました。そして教会の後ろ側に金光会館という教会所有の宿泊所があり、われわれボランティアの拠点とさせていただいておりました。食事は被災者の方たちと一緒のものです。食事を作る方達は、気仙沼教会の下に南町という商店街があり、そこの料理人の方々がほとんどです。その方々が朝晩と食事を作って下さっていました。それをわれわれボランティアも被災者の人たちと一緒に食事をしてきました。
でも我々はよそものです。はじめは、受け入れてもらえるというか、なかなか親しくなれませんでした。
紫会館に入っておられる140名の方々、そして気仙沼教会に入っておられる30名近くの方たちと生活していると、だんだん親しくなってきます。そうすると被災当時のことを小さく細かく話してくださるようになりました。
日中は、われわれボランティアチームは災害ボランティアセンターに登録して作業に行きます。この日はここにいってください、あそこにいってください、というように毎日作業する場が変わります。最初の4月、5月、6月、あるいは7月まではほとんど肉体労働です。ガレキを片づけたり、家を片づけたりしました。ときには現場に残っていたたくさんの写真のアルバムの洗浄作業をしました。津波によって泥がたくさんついていて見られる状況ではないのですね。ガレキ片づけの現場などから、体育館に集められていて、これを水できれいに洗って、また見られる状態にしてアルバムに入れなおす作業もしていました。
3.気仙沼に行かせていただいた思い
われわれボランティアとしては・・・というより私は「ボランティア」という言葉があまり好きではありません。ボランティアというのは奉仕という意味になると思うのですが、私は奉仕をするために行ったつもりはありません。
私がしたいと思ったのは何かといいますと、大地震のあった3月11日2時46分、テレビで放映されていたと思いますが、たまたま私は山の中を歩いていましたので状況がわかりませんでした。家内から電話があり「東北は大変よ、東北は大変よ」、と聞きましたので、急いで帰ってテレビのスイッチを入れてみますと、私の孫と同じよう子供たち、それを抱えたお母さんが流されていく場面もありました。そういう場面を見ていると、なぜか、どういうわけでしょうかね、いかにじっとしておられない状況になりまして、むかし神戸に行かしてもらった時の仲間が近くにおりましたので、声をかけて、とにかく現地にいこうということで飛び出したのが、最初の仙台であり、石巻でありました。ところが気仙沼が、どういう訳か心の中から離れなくて、どうしても行きたいという思いがありましたので、三回目は一人でとにかく気仙沼に入らせてもらおうと思い、入らせていただきました。
こうして約一年経ってきましたけれども、いまときどきですね。仮設住宅に入っている方から電話が入ることがあります。夜中だったり昼間だったりします。その方は仮設住宅の自治会長をやっておられる方です。全責任がありますので、いろいろ思いつめたり、自治会の皆さんの思いが心の中にずうっと入ってくるのですね。そうすると。人間、やはり、責任感が強ければ強い人ほど、グーっと心が締め付けられるといいますか、それによって自分が潰れてしまいそうになられるわけです。そういうときに電話がかかってくることがあります。そういう時こそ大事だよと思って、その場の電話では「どうぞ元気で過ごしてください」と言いながら、明くる日はかならず顔を出してその人の話を聞きにいったりいたします。
これを通していきますと、だんだんとお互いに親しくなり、心と心の触れ合いができてくるようになります。こうなるとその人もだんだん明るくなってくるのですね。これが私にはボランティアの仕事だというか、務めだと思わせてもらっております。
4.気仙沼で過ごす思い
まず気仙沼に入って思ったこと、また、入る以前から思っていたことは、たくさんの方々が亡くなっておられるのですね。その亡くなられかたが大変悲惨です。どうしたらいいだろうかと思いました。気仙沼に着いてからは、毎朝4時に起きて、ご祈念の始まる朝6時までの2時間を利用させてもらい、とにかく消滅した町の中を歩き、霊様を弔わせておうと思いまして、現場を歩かせてもらいました。
そうしますと、朝早く目が覚めた老人の方に会うことがあります。その方々は、なくなった町の中で暮らしておられたのですが、かならず朝早いときには自分が住んでおられた町にまた足を運んでおられるのですね。声をかけてお話しすることもありました。私は山口弁、ご老人は気仙沼の言葉なので、最初はなかなか理解できませんでした。話していくうちにだんだんと被災されたことのひとつひとつを話してくださるのですね。そこで、「ご家族は?」と聞きますと、だまって、指を一本あげて示してくれるのですね。これは。「家族はいない。私ひとり」という意味なのです。
3か月間ずっとそうやって歩かせていただきましたけれども、毎日毎日そういう人たちと出会って悲惨なことを聞いてきますと、さきほど言いましたように「神様どうして、神様どうして?」という思いがどうしても出てくるのですね。だから地震というのは天変地異といいますけれども、地球が生まれて46億年、あと寿命が46億年といわれていますけれども、どうでしょう、天地異変がおき、いろいろ災害が起きて、むごい死に方をなされる方がたくさんおられて、みなさんはどう思われたでしょうか。
私は現場の中を歩くたびに。そういう老人に会って、つらい話をたくさん聞いてきました!
あるときは。町の中を歩いていて、ふと、亡霊としか思えないのですが、子供の顔がちらーっと(妄想と思うが)出て来るのですね。「どうしたの?あなたはだれ?」と、話しかけるとニコニコーと笑って、スーっと消えちゃうのですね。そうしたら、消えた途端、急に、グーッと鉛がつるされたような重い体になり、悲しみが猛烈に襲ってきます。決して自分がそうなったつもりではないのですが、なにかしら腹の底から悲しみがドーンと出てくるのですね。
これが3か月の間、ずーっと続きました。65キロあった体重が一時55キロまで下がりましたけれども、この原因は辛いからなったということよりも、「数多くの霊様が、ひょっとしたら、私の体の中に入って来られたからではないかな」と思っています。この事で、私自身は、霊様は助かっておられないなあという思いをさせられました。神様がそうさせられたのだろうと思います。
5.神様のお計らいごと、思い
そういう経験をさせていただきながら、「神様のお計らいごとはどういうことなのかな」と思って現場を歩いているときに湧いてきた言葉が、気仙沼教会の朝のご祈念の最後にいつもご神号としてあげさせてもらっております
「生きても死にても天と地は我が住みかと思えよ」という言葉が、出て来ました。
そして、またある日に、気仙沼教会の信者さんからお願いを受けました。息子さんが亡くなっておられるのですけれども、当初は火葬がなかなかできないのですね、この方の息子さんも土葬されておられました。土葬から火葬にするときにいったん掘り起こさないといけないわけですけれども、その際4名の身内の方の証人が要るのです。その証人がいらっしゃらないので、その方は私に立ち会ってほしいといわれましたので、即座にお受けしてそこに立ち会うことにいたしました。
3月から丸3か月経っての土葬を掘り起こすわけです。お父さんと一緒に墓地に車でいったわけですが、すでにその車の中でソワソワソワソワして落ち着かれないのですね。そりゃそうですよね。たった一人の自分の息子さんが亡くなられたわけですから落ち着けるはずがないのです。しかも土葬したのをまた掘り起こすわけですから、大変な作業というか、強烈な苦しみがまた出てくるわけです。
だから土葬の現場に着いたら、私はその方の体をひっつかまえていました。土葬されている棺桶のある場所で、掘り起こす中をひっつかまえておりました。そして、言った言葉は、「とにかく見守っていて下さい、祈ってあげてください」。そういう思いで、身体をしっかりと捕まえていました。どんどん棺桶が見え始めたころになりますと、さすがにそのお父さんも落ち着かれていました。その棺桶を新しい棺桶に移し替えるまでには、ちゃんと落ち着いておられました。
でも、そのご遺体を私自身も見ましたけれども、亡くなられて三ヶ月経って茶褐色に変わっておりました。みなさんで新しい棺桶に移すとき、ちょうど首のあたりが新しい棺桶にあたったのですが、「ボキッ」いうような音も聞こえました。さすがの私も精神的にちょっとおかしくなるかと思いましたけれども、それもなく無事に落ち着いて立ち会うことができました。
この土葬から火葬に移す作業と「生きても死にても天と地は我が住みかと思えよ」のご神号、この二つをいただいたときに、私の疑問というか、抱いていた思いについては、
「天変地異、こういう大災害を起こすのは神様ではない、これは地球が生きていくためには仕方ない現象だ。」と改めて感じさせてもらいました。
事実、私は68歳なのですが、この68年間、過去を振り返ってみますと間違いなく神様もお働きで助けていただいた事実はあります。
それと被災された方々のなかで、数多くの方々が奇跡的に助かった、亡くなってもおかしくない状況の中を命を助けられた方々はたっくさんいらっしゃいます、その話をたくさん聞いてきました。だから神様は間違いなく人を助けえる計らいごとはされていらっしゃるわけです。災害と天地異変は神様のお計らいごとでもどうしようもない、神様のせいではないということを改めて私は感じさせてもらっております。
5.被災地の思い
最後になります。ちょうど時間となりました。最後に皆さんにお願いしたいことは、どうか被災地に来てほしいのです。今私がどういう言葉で皆さんに現地の状況を話したとしてもなかなか伝わらないものがあります。若い人もたくさん来ました。自殺しそうな人も来ました。全員元気になって帰りました。むしろ被災者の方から元気もらって、そして地方に帰っていきました、
お願いです。いろいろな事情があるかもわかりませんが、なんとか都合をつけて被災地に来てほしいです。そしてご自分たちの神様からいただいたこの霊様、魂を揺さぶってみて下さい。そうしたらいまの自分の姿が見えてくると思います。何かをしなくてはならないというか、現状が、いま被災地がどういう状況になっているのか、被災された方々はどんな思いをされているのか、どんなつらい思いをされておられるのか、きっと分かるはずです。
現地の人は言っていました。

「とにかく現地を見てくれー!」


叫んでおられます。
どうかよろしくお願いします。ありがとうございました。
以上
※当日お話にはありませんでしたが、予定原稿の末尾の内容です。
私の長女は三児の母親です。最近手紙を寄越してくれました。彼女はボランティアの経験はありませんが、私の行動を見て感じた事を書いています。
「娘からの手紙」
 「そちらでの活動は忙しいですか。
私は、今まで震災のボランティア活動をした事が無いので正直、その大変さわかりません。想像でしかありません。
現地に行って人の助けになりたいと思っても、受験がある・仕事がある・子どもが居ると、いつも遠くから出来ることをするだけ、祈る事だけです。
思い立ったら直ぐに行動に移すお父さんは、本当にすごいなと思います。
震災からもうすぐ一年ですね。私にはあっという間の一年に感じますが、被災された方々にとっては長い一年だったのでしょうか。
暖かくなるまでまだありますが、体に気を付けて頑張って下さい。」


 被災して一年のこれからは、心のケアをしていかねばなりません。その為、息の長い支援活動が必要となるので、地元の人達、特に気仙沼教会の信者さんの活動は大きな力となるでしよう。
我々被災地以外の者は、支援活動してくださる地元の人達に、力強いバックアップ支援体制を構築していく事が大切です。
人が人を助けていく運動は、我々被災地以外の者の大切な義務ではないでしょうか。
そうでないと、人の痛みがわからない環境・社会になってしまい、世の中がおかしくなると思えてならないのです。

以上